江戸切絵図大名小路嘉永二年
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切絵図(国会図書館HPより転載)
東京駅、江戸期には大名屋敷が立ち並び、呉服橋に
名前を残すのみとなった今は無き外堀、お城の和田
倉堀へ荷物を運び入れた道三堀など水の都だったこ
とが読み取れます。
地図への書き込みは、いろいろ調べたものですが、
確実でないかもしれません。
アルバム: 街角ウオッチ
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コメント (8)
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道三堀に沿ってお城に入っていくと和田倉御門に至ります、
会津藩邸のあった場所ですが、「腰掛」の表示があります、これは
お城へ登城したときにお供の者が待機した場所であったようです。
このブログごらんください
http://shugakuin.blogzine.jp/blog/2010/05/post_90d1.html2013年3月5日 08:54 早起き鳥 (6)
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早起き鳥さん、おはようございます
よくよくお調べで勉強になります
絵図を見て各お屋敷の大きさがすごいですね、実際歩いてみると実感されるでしょうね2013年3月6日 10:03 tH (3)
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tHさん、おはようございます
>実際歩いてみると実感されるでしょうね
はい、まだチョッとしか歩いていませんが、大名屋敷の広さは相当な
ものだったと思いますよ(*^^)v
大名の登城にあたっては相当大袈裟な行列を仕立てていたんでしょうね、
それで政治の仕組みの異なった欧米列国と渡り合うんですから、フット
ワークからして重かったかな〜(~_~;)
明治政府にとって、この地区は選り取り見取り、明治期の地図と比較
しても面白いでしょうね2013年3月6日 10:43 早起き鳥 (6)
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早起き鳥さん
明治政府の江戸城周りの土地の再配分は随分いい加減で、商の感覚を持った人間がいなくて、東京のど真ん中に畑を作って野菜を作らせたり、それこそもったいない利用の仕方をしていたとか、坂本龍馬のような人間が居たら政府に入る収入も違っていただろうとどこかに書いてありましたね2013年3月6日 11:32 tH (3)
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tHさん、こんにちは
そうだったんですか〜(~_~;)
丸の内と言えば「三菱」岩崎弥太郎を思い出すのですが、ちょっと調べると
このサイトにこんな記述も見えますので、tHさんのおっしゃるとおりですね、
こんな場所が、買い手が無かったとはビックリ
↓三菱の歴史、http://www.mitsubishi.com/j/history/index.html
1890(明治23)年、政府の要請で買い手がなくて困っていた丸の内と神田の土地10万余坪を買い取り、現在の丸の内ビジネスセンターのもととなるオフィス街の建設を計画したのも彌之助です。2013年3月6日 11:53 早起き鳥 (6)
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絵図を見て、北町奉行所と南町奉行所は結構近かったんですね、北町は今の東京駅八重洲口大丸付近かなあ、南町は有楽町駅辺りでしょうか、ここにあの金さんが居たんですねぇ
2013年3月6日 13:12 tH (3)
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tHさん、こんにちは
奉行所も東京駅近くですね〜、北町の跡が丸の内トラストタワー近傍に
あるようです、一度見てみたいとおもいます、探しずらそうですが(~_~;)
http://orange.zero.jp/kkubota.bird/machibugyousho.htm
http://www.chuo-kanko.or.jp/blog/2012/04/post-1214.html2013年3月6日 15:11 早起き鳥 (6)
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早起き鳥さん
よく見つけましたね、いろいろ探している人も居るんですねえ2013年3月6日 23:28 tH (3)
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