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写真: 勝願寺(鴻巣市)伊奈忠治側室・忠次室墓

下総国の流山本陣より、官軍が本陣を置いた板橋宿への移動に通過した道。
旧赤山街道。


mixi記事コピペ――
「越谷2 香取神社/近藤勇/相馬主計・有馬藤太・渋沢栄一」
2010年11月14日 00:09
05.03.22。 10.11.13。 11.10.06。

●新選組最後の隊長、相馬主計ソウマカズエ──
1868年、捕らえられた勇の救出に、歳三の命で死を覚悟して総督府に助命嘆願の書状を届けた。しかし捕らえられてしまう。
勇処刑後しばらくして主計は釈放され、彰義隊残党の再挙に加わったのち、歳三と合流して箱館へ。
歳三戦死の4日後、敗戦処理雑務のために、永井玄蕃頭尚志が任命。降伏、新選組の全責任を負い、終身流罪となる。
伊豆七島、新島へ流されたが、そう不幸でもなかった。島民に慕われ、寺子屋を開き学問を教え、また結婚もした。
わずか2年で許されて、妻も伴って東京へ戻るのだが、まもなく割腹自殺した。理由は定かではないが、官吏登用の話を断ったこと、困窮にあえぐ元新選組隊士たちに詰られたことなどから、現実的な生活と新選組最後の隊長としての意地との間で葛藤があったのではないだろうか。

●有馬藤太「武士には作法というものがある。近藤勇は真の武士道を弁えた敵ながら天晴れな奴」「大鳥圭介以上」。
・薩摩藩士。小野郷右衛門に飛太刀流を学び、十九歳で師範代になるほどの腕前。特に抜刀術が得意だったらしい。戊辰戦争4月。東山道総督府の斥候を命じられ、香川敬三率いる一隊に従軍して宇都宮へ。 途中、流山に旧幕府軍が駐屯しているという報告を聞き、甲陽鎮撫隊(新選組)の陣屋を包囲。局長近藤勇を越谷まで連行する。 その後、結城城奪還や板倉勝静捕縛等活躍。14日、一時江戸に帰還し板橋に拘留されている近藤の処刑に反対したと伝えられる。
その後、香川隊に復帰後の22日、壬生城の戦闘で旧幕府軍に対し、獅子奮迅の活躍をするが数箇所に銃弾を浴び、重傷のため横浜の病院に檻送された。復帰後、近藤の斬首を知って大いにその不当をなじったという。香川敬三、谷干城に絶縁状を送ったとか。

(●大総督府軍監、中村半次郎。「俺が居たら殺させやしなかった」「英傑」)


●渋沢栄一「近藤は条理の分っている人物で、薩州人に対する例外を除いては、決して無鉄砲に乱暴を働く様な男ではなかった」。
※公の詳細は「上野山4」に。

渋沢グループで仕事をする機会が過去に2度ありました\( ̄▽ ̄)
北区にある渋沢栄一史料館、行こう行こうと思いながら、一度も行ってませんf(-_-;例のごとく、史料館前をさんざん車で走ってました( ‘д‘⊂彡☆))Д´)パーン


埼玉巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1n7FXl59z93Omd64JgBAzU4whzdY&usp=sharing

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