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写真: 本田親直(弟) 墓碑文 日置市文化財 写真: 庚申碑 吉満神社 鹿児島市

墓石の傍らに、野外説明掲示板。
漢文の勉強も兼ねて訳を試みました。
文語調ですが、白文よりは読み易いかなと思います。
間違いもあるかも知れません。参考まで。

---原文---
(正面)
慶応四年戊辰
本田親正之墓
七月十日
(向左)
本田親正通称吉左衛門親至之嫡子也[01]
為人質直而好義毎言 国家有事之曰[02]
竭力致身宜不墜祖先之名矣慶応三年[03]
丁卯十一月我  少将公奉    [04]
王命率軍護   禁闕親正蒙先鋒 [05](注1)
命為外城三番隊伍長先  公一月赴[06]
京師徳川慶喜悖   王命據大坂城[07](注2)
叛焉刻期大擧逼京師   朝議遣薩[08]
(背面)
長之兵拒諸伏見鳥羽翌年正月三日有[09]
征討   命即攻撃奮戦囂麋四起殺[10](注3)
声震天賊軍終敗移營扼之我軍善戦以[11]
寡撃衆連戦四日皆捷焉賊褫魂捨銃釈[12]
甲而東走親正自鳥羽至八幡屡破賊其[13]
功不少矣尋奥羽諸藩率叛再奉 [14]
命赴越後與賊戦破数塁越國半定而筒[15]
場村之塁據險設柵固守不抜晝夜攻撃[16]
(向右)
數旬其苦可知也親正羅病在病院六月[17]
十四日炮声頓軣耳乃不忍在蓐扶杖来[18]
冒危地翌暁傷于丸七月十日歿年二十[19](注4)
六葬于小千谷慈眼寺嗚呼親正見危授[20](注5)
命不食平生言能縄其祖先之武以顯父[21](注6)
母之名千載之下芳名不朽既忠矣又孝[22]
矣明治元年戊辰十二月朔日瘞遺物於[23]
雪窓院招魂云 己巳八月西郷隆永誌[24]

---試訳---
[01]本田親正は通称吉左衛門。親至の嫡子なり。
[02]人為(ひととなり)は、毎言直を質し、義を好む。
国家のこれに事有りて曰く、力を竭(つく)し、
身を致して、宜しく祖先の名を墜しめず。
[03]慶応三年丁卯(1867)11月、我が少将の公(島津茂久
すなわち忠義)は王令を受け、禁闕(皇居)護衛の軍を率いる。
[05]親正 外城三番隊伍長と為すの命で先鋒を蒙(おお)う。
[06]忠義公は、1月(1868)に京師(京都)に赴く。
[07]徳川慶喜は王命に悖(そむ)く。
大阪城に(據)たてこもり、刻期(期日)に叛(さから)い、大挙京師(京都)に逼る。
[08]朝議は、薩長の兵を遣わし諸(これ)を拒む。
伏見鳥羽にて翌年(1868)正月3日、征討有り。
[10]即(ただ)ちに攻撃との命令。
麋(おおじか)の鳴くような大声が4度起き、殺声が天を震わす。
[11]賊軍は破れ終わり、営(とりで)を移してこれを押ゆ。
我軍は寡を以って衆に善戦す。
[12]連戦は四日間、皆捷(すばやい)。
賊は気が抜け、銃を捨て、鎧をぬぎ、東走。
[13]親正は鳥羽から八幡に至りたびたび賊を破る。その功少なからず。
[14]率(したがう)か叛(そむく)かを奥羽諸藩に尋(たず)ぬ。
[15]越後に赴くの命を受る。賊と戦い数塁を破り越國を定むこと半ば。
筒場村の塁は険しきに柵を設け守り固く抜けず。
[16]昼夜の攻撃は数十日。その苦しみ知るべきなり。
[17]親正は病に羅(かか)り、病院に在り。
六月十四日の事。炮声にわかに耳に轟き、寝ていることも忍びがたく。
杖をたよりに危地を冒し来たり。
[19]翌暁、銃で撃たれ負傷。七月十日没。年二十六。
[20]小千谷慈眼寺に葬らる。嗚呼(あぁ)親正は危険に際して命を投げ出す。
平生より嘘を言わず。
[21]祖先の武をよく受け継ぎ、千載の下に父母の名を顯(あきら)かにす。
[22]芳名は朽ちず。既に忠なり孝なり。
[23]明治元年戊辰(1868)十二月朔日。遺物を埋め、雪窓院で招魂を行う。
[24]己巳(1869)八月 西郷隆永(隆盛)誌す。

参考

・注記
注1)禁闕:皇居
注2)京師:京都
注3)囂:かまびすしい,麋:大鹿
注4)傷于丸:は「銃で撃たれ負傷」の意。西郷特有の表現か。
  本田親直の墓、西郷吉二郎の墓にもあり。
注5)見危授命:危険に際して命を投げ出す(論語)
注6)食言:嘘を言う。
  能:刻字では"能"の異体字 つくりが"去"を用いる。(京都 本能寺の表札も同様)
  縄:受け継ぐ。

・闕字(けつじ)
 敬意を表す空白(ここでは天皇四字、皇居・朝議三字、
藩主二文字、国家・上からの命令一字)

・歴史背景
慶応3年10月14日 大政奉還
慶応3年11月13日 薩摩藩主・島津茂久を奉じ、兵約3,000名を率いて鹿児島を発す。
慶応3年12月 9日 王政復古の大号令
慶応3年12月25日 江戸薩摩藩邸の焼討事件
慶応4年 1月 3日〜 1月 6日 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)
慶応4年 4月11日江戸城明渡し
慶応4年 5月〜 7月 北越戦争(戊辰戦争)

・本田親正の新潟 船岡公園にある墓
https://web.archive.org/web/http://boshinsoutairoku.bufsiz.jp/funaokakouen2.html
 上から30番目に「本田吉左衛門墓」。

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